top of page

 

 

 

今回は、キャンサーペアレンツの会員の東厚子さんにお話を伺いました。

東さんの記事は、第1部と第2部に分かれております。

東さんは闘病しながら、子育てされました。

​第1部では、そんな東さんに家族や子育てのことを中心にお話を伺いました。

 

 

【プロフィール】

 お名前)東 厚子

・成人横紋筋肉腫:希少がん

 →告知時:35歳(長女:6歳、長男:3歳)

・旅行が趣味(特に奄美、沖縄「なんくるないさ」)

―病気が分かってから今までの事を簡単に教えて下さい。

息子を生んだ直後から体調が優れずマッサージを受けたところ、右肩甲骨横500円玉大のしこりを指摘されました。当時は関西へ里帰り出産をしていましたので、帰宅後に病院へ行くことを勧められていましたが、ワンオペ育児だったこともあり、行く時間もなく特に気にも留めていませんでした。

半年後、しこりはピンポン玉の大きさになり近所の総合病院整形外科を受診。良性のガングリオンと診断され放置していました。その後2年間で腫瘍は洋服の上からでもわかるくらい大きくなり、夫の海外赴任が濃厚になったのをきっかけに別の病院を受診。そこで筋肉や皮下組織に発症するがんである軟部肉腫であると診断されました。もし5大がんのようなメジャーがんだったとしたら取り乱していたかもしれませんが、軟部肉腫が聞いたことのない病名だった為、涙も出ず冷静でした。しかし、今振り返ってみると病院から家にまでどのように帰ったのか覚えておらず一緒に連れていった息子と病院前からタクシーで自宅まで帰宅しましたので、実際は動揺し思考停止していたのかもしれません。

その後、セカンドオピニオンとして2つのがん専門病院を受診しましたが、術式や化学療法がどこもほぼ同じだったことから、自宅から近い病院で治療を受けることに決めました。

生検で採取された細胞が全て壊死していたため、悪性線維性組織球腫を疑い治療を進めていましたが、手術後の病理診断で横紋筋肉腫であることが判明しました。横紋筋肉腫は子供には多いがんで大人には珍しく症例も少なく予後も悪いと言われました。そのことを聞いた時は大きなショックを受けましたし、この病気を克服された患者さんがいるのなら会いたいと思っていました。

3ヶ月以上の入院を経て化学療法を2クール行った後に、一旦中断して自宅から通院することに決めました。本来ならば最低でも4クールの化学療法が必要でしたが、QOLがとても低く、このままでは人生を楽しめないと感じたことが理由です。現在は脾臓や腰椎に腫瘍がある為、1年に一度の経過観察をずっと同じ主治医に診てもらっています。

―がんについてお子さんにどうお伝えになりましたか?

上の子が6歳、下の子は3歳でしたので、子どもの年齢に合わせて伝え方を変えていきました。

下の子はまだ小さかったので、何が起こっているかわからない様子でした。小学校に上がった時には、ウィッグを外した直後の写真を見て「どうして変な頭なの?」と質問された時に病気の治療をしていて今も通院していることを伝えました。高学年で自分がお腹の中にいた時から、がんが体の中にあったということを知り、自分の体にもがんがあるのでは?と怖がった時期もありました。「がんはうつらないことを医師にも確認しているので大丈夫よ」と伝えましたが、今でも小さなおできみたいなものを見つけただけで過剰に反応することがあります。

上の子は、私の髪が抜けてしまったことや背中の大きな傷などで病気であることは気付いていたようで、「どうして吐いているの?」など矢継ぎ早に質問し心配し聞いてくれました。「病気の治療しているんだよ」と答えていましたが、娘はもともと天真爛漫な性格で怖がったりせず、深く追究してきませんでした。私のことを気遣い、「小さなクレヨン」(注1) という絵本を買って読み聞かせてくれました。当時、副作用で心身ともにボロボロで母親として情けないと感じていましたが、そんな私でも何かできるかもしれないと思わせてくれて、元気が出たのを覚えています。高学年になると、肉腫とがんの違いに興味を持ち始め、自分で調べ授業で発表したりしていました。

子どもたちはリレー・フォー・ライフ (注2) などに参加していたこともあり、がんや死について身近に感じているようです。母親が若い時に病気をしてしまったので、「人生長くないかも、何が起こるか分からない」という意識がどこかにあるのかもしれません。

医学は日々進歩していますし、良い治療法ができるかもしれないので、「長生きできないかもしれない」とは言わないように心がけていました。

 

―お子さん/旦那さん/ご本人それぞれに大きなご不安があったと思います。不安とどのように向き合って来られましたか?

(お子さん)

通院・検査時はベビーシッターさんに、入院中や退院後しばらくは母や義母に上京してもらいサポートしてもらっていました。

退院後、生え変わった髪がクルクルだったり、歯磨きが辛くて虫歯が出来たりしたので美容院や歯科医院に行く機会があったのですが、そこで横になると下の子が「具合悪いの?また入院するの?」としきりに心配していたので、その都度、「病気ではないから、心配しないで」と伝えていました。検査台と横倒しの椅子がかぶって見えていたのかもしれません。悪い検査結果が来た時は夫だけに伝え、余計な心配をさせないようにしていました。

(旦那さん)

主人は、常に建設的な考えの持ち主で肉腫関連の本やあまり普及していなかったインターネットで情報収集してくれました。

私の前では飄々としていましたが、幼子二人の世話と仕事。

働き盛りだったにも関わらず転勤を断ったりと不安はあったと思います。

当時、主人の仕事に支障をきたしてしまったことには、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

(ご本人)

長く通院していると、検査結果の良し悪しにも冷静に対応できるようになってきました。色々な試練にぶつかり少しだけ成長できたのかもしれません。インターネットでは、信用できる情報のみを参考にし、余計な検索はしないようにしています。ただ、今でも「生存率など信用してなるものか」と思いながらも検索してしまう自分がいます。

患者会SNSやキャンサーペアレンツの投稿を参考に治療法、心の在り方・これからの人生、の参考にさせていただいています。

―周囲のサポートや心のケアでは具体的にどのようなものが嬉しいですか?

実母と義母が泊まり込んで家事を手伝ってくれましたし、妹や親戚(全員遠方)も好きな食材やケアグッズを送ってくれました。

病気の事を友人に話そうか迷いましたが、長期入院と外見の変化に気付き質問されたママ友と学生時代の親友には伝えました。ママ友達や学生時代の友人も一生懸命笑顔にさせてくれましたし、子供の同級生のお母様が子供を預かってお泊りさせてくれた方もいました。

習い事の送迎やPTA役員を交代して下さったりと、心身共にサポートしてもらえた事が嬉しく有難かったです。

最初はお世話になりっぱなしで申し訳ない気持ちでしたが、いつか元気になって恩返しできればと考えられるようになりました。

 

―子育てに対する考え方は変わりましたか?

告知当時、子供がまだ小さかったので「どう生きてほしい」という願いは少なかったです。社会的秩序を守り、人に迷惑をかけず思いやりある子に育って欲しいと思っていました。

二人とも大学生になった今も基本変わりませんが、一度きりの人生を楽しんで欲しいですし、小さな幸せに敏感に過ごして欲しいです。

人生で経験する出来事や出会いやご縁は、偶然ではなく必然のように思います。

これから幾度とぶち当たる壁を乗り越え、その都度成長してくれればと願っています。

―「カマエイド」の取材にて治療の副作用でケモブレインなどに悩まれたご経験をお話しされていましたが、このようになかなか人には言えないこと/分かってもらえない事もあったと思います。その時はどのように心を整理しましたか?

当時はネットがまだ普及していなかったので、先輩のがん体験本を読んだり肉腫患者の先輩やご家族に副作用や子育ての悩みを相談していました。

元気な同世代のお母さんたちと同じように動けず、もどかしい気持ちになり育てられるのかと途方に暮れた時期もありましたが、その時々で自分にできる家事・育児をしようと気持ちを切り換えました。

(注1) 小さくなってしまったクレヨンが捨てられたが、まだ自分にはやることがあるんじゃないかと思って旅に出る。汚れた石や剥げた靴・服などを黄色く綺麗に塗ってあげて、最後は星になって黄色く輝くという内容。

(注2) がん患者さんやそのご家族を支援し、地域全体でがんと向き合い、がん征圧を目指すチャリティー活動。

来週も引き続き、東さんのインタビューです。

次回は、キャンサーペアレンツについてや学生たちに伝えたいことなどについてお話していただきます。​次回も素敵な記事になっておりますので、楽しみにお待ちください。

東さん①.jpg

がんと子育て

bottom of page